佐原伸略歴(非公式版)
- 1951年、東京都生まれ。生まれたときから重かった。
- 1952年、ラーメンを2杯食べ、周囲を驚かす。
このころ、アパートの2階から転落し、頭を打つ。 この後「転ぶときは頭から」という癖が付く。
- 1954年、都下北多摩郡小金井村都立保育園入学。
リレー競争で4人抜きを演じる。 この時以来、走りで他人に勝つことなし。
- 1956年、都下北多摩郡小金井村ひなぎく幼稚園入学。
運動会で、玉転がしの玉の上に乗ってしまい転落する。 日本のバイオリン界の草分け小野アンナの最後の弟子となる。兄弟子に「現代のパガニーニ」と呼ばれる浦河宜也、姉弟子に前橋汀子などがいる。
- 1958年、都下北多摩郡小金井村第3小学校入学。
毎日、箒をもって隣のクラスとの「戦い」に参加する。 気分は赤道鈴之助か嵐勘十郎か :-)
- 1960年、60年安保闘争参加。
国会周辺でデモ行進に参加、第3小学校廊下でデモ行進を組織するも、好きな彼女が自衛官の娘で悩む。
トルストイはおもしろくなかったので、授業中アルセーヌ・ルパンを読みふける :-) ソフトボール投げ53m、跳び箱6段をこなすなど、唯一の弱点であった体育の成績も良く、
いじめっ子とも対決しその後友人になるなど、絶頂期。
このころ、麻雀・将棋を覚え、6年生までにかなり強くなる。
- 1961年、友人の家で大盛りのカレーライスを5杯食べ、苦しむ。
- 1964年、杉並区立神明中学校入学。
バレーボール部・卓球部に所属。東京オリンピックの影響で東洋の魔...を目指すも、重くてジャンプできず。
西荻窪から東小金井までの10分ほどで、33手詰めほどの詰将棋を解くことができるようになったり、 友人と歩きながらめくら将棋を指すことができた。
将棋や、自分の成績をオープンにする習慣を、学校中へはやらせる。 ついには、教師をも巻き込み、クラスは将棋道場と化す。 授業時間に先生と将棋をしていて、他の先生に怒られ........なかった
:-)
「共産党宣言」「空想より科学」へなどを読み、名文に感心する。
- 1965年
岡村昭彦の「南ベトナム戦争従軍記」、
バーチェットの「17度線の北」
などを読み、米国の敗北を予想する。
このころ「コンピュータっていうもので、人工知能ができるらしい」という話を聞き、 将来コンピュータをいじってみたいと思う。
- 1966年
受験勉強は一切せず、新聞や社会科学の本やSF小説や推理小説を読みふける。 普通の小説は、トルストイ以来不得手となる。 バイオリンを捨てる。
- 1967年、受験前日に友人と1日将棋を指していて、危うく都立西高等学校に補欠入学。
将棋部を探していて囲碁部と社会科学研究会に迷い込む。 以降、昼休みに10局というペースを守る。 この時以来、全国高校将棋選手権・全国高校囲碁選手権に合計5回出場。
最高成績は、将棋選手権団体12位。
初めてのサッカーの試合で2得点した余波で、 授業をサボって全学年のサッカーの授業に参加。 体育教師の評価は高かったが、授業に出ず社研の部室か囲碁部の部室かグランド、
あるいは朝から雀荘という行状のため、成績は番外地(400番以下のこと)。
- 1968年
小山内宏の「アメリカはなぜ勝てないか 西欧的戦略の限界」を読み、
米国の敗北を確信する。
「わたくし、学生運動を悪いこととは思っておりません」という、 後に尼さんになった古文担当の担任教師の下、 生徒会委員長(民青)・副委員長(中核)・書記(革マル)を全部同じクラスから出し、
しかも内ゲバをやらないという快挙を達成。 しかし、古文の学年最低点を記録し 「読解力はありますが、もう少し文法と単語を覚えた方がよろしいのではございませんか?」と担任に言われる
:-
このころ、自動代返システムが完成の域に達し、授業に出なくても出席はしていることになる。
- 1969年
ハンドボール部にも加入。グランドに入り浸りの生活が続き、夜は雀荘。
英語の授業で「アリシアの日記」という「ムッシュー・ド・ラ・フェストはお姉さまと私とどちらを愛しているのかしら」なんて内容の、日本語でも興味ない本がテキストになり、英語嫌いが決定的になる。
- 1970年、大学受験で全敗し、新宿セミナー予備校入学。
授業は受験に出ない英作文を週1時限だけ出て、あとは京橋のフィルムセンターに通う。
1950年代フランス映画を中心に、「Z」 「禁じられた遊び」「戦艦ポチョムキン」「天井桟敷の人々」「女だけの都」「北ホテル」
「ミラノの奇跡」「カサブランカ」「ディエン・ビエン・フー大決戦」「戦火のかなた」などを年間100本以上見る。
- 1971年、東京教育大学理学部応用数理学科入学。
囲碁部・サッカー部に所属。 授業をサボって、全学部、全学年のサッカーの授業に参加し、空いた時間は囲碁をしていたため、成績は振るわず。
現筑波大学監督山中先生の評価は高く(ただし、熱心さへの評価 :-))、保健の授業には出ずともA評価を受ける。
英語の授業で、またも「アリシアの日記」のムッシュー・ド・ラ・フェストに悩まされる。
HIPAC 103なる当時でも博物館が似合うパラメトロン計算機で計算実習。 1ワードに2命令という変則的計算機で、紙テープの穴を読むのだけがうまくなった。
卒業後に買ったカシオのプログラム電卓より遅かった。
- 1972年
ドイツのサッカー留学から帰ってきた現東海大学監督宇野先生に指導を受ける。 その後、読売クラブのコーチとなった宇野先生に頼み込み、読売クラブで修行するも、
尾崎・松木らの中学生のうまさに脱帽。
- 1973年
成人してからの最低体重77kgを記録。逆三角形の体型と100m11秒台の足を得る。 いくら走っても息が切れず、膝から下をタックルされても倒れず、
酔っぱらって駅の階段を滑り落ちてもバランスも崩れず :-)
数学基礎論以外の授業には出ず、もっぱら集合論・ネットワーク理論などを独学。 このため、解析・代数などの基礎科目が壊滅状態に陥る。
- 1974年
計算機構コンパイラー専攻ながら、居場所はグランドのため、 「おーい佐原君、そろそろゼミに出ないと卒業できないよ」と4階の教室からグランドに向かって先生に呼ばれて、
しぶしぶゼミに参加する。
卒業のため、力学の演習を教授と1対1で行う。毎週7問で死にそうになるが、 2重積分・3重積分の意味が少しは分かる。
- 1975年、東京教育大学理学部応用数理学科サッカー専攻もといコンピュータ・サイエンス専攻卒。
紙テープの扱いと磁気ドラム・磁気ディスクの扱いには自信ができたが、 担任の教授に「奇跡的に卒業できた」と言われる :-)
卒業前の欧州旅行の資料を貸してもらうことで、妻文子と出会う。
- 同年、就職活動期間中にサッカーのリーグ戦に出場していて、就職の当てがないところを、 野村コンピュータシステム(現野村総合研究所)に 内定した友人の紹介で同社に入社。
遅刻すれすれで出社し、定時に退社するも、帰宅は深夜。
ビリヤードでハスラー生活。
証券情報システム構築で90欄パンチカードと構造化プログラミング・構造化設計をマスターし、 第2次オンラインシステム構築でFortranで事務処理システムを作成し、
ソフトウェア開発・保守環境(SMEF)の構築でUNIXとrogueを経験する。 社内へのUNIXおよびワークステーション導入などに従事。
稟議書無しでVAX-11を購入し、稟議書の存在を知る :-)
この間、PET2001、PC8001、PC9801、Macintosh Plus、Apple IIを順次購入し、 BASIC,
UCSD Pascal, C, Lisp, Smalltalkなどで遊ぶ。 (Apple IIが最後であることに注目 :-))
最高価格のシステムは、PC8001で構築したUCSD Pascalシステムである。 32KB大容量メモリーに、140KB大容量フロッピーディスク装置4台を接続し、
数十分かけてSoftware Tools in Pascalのプログラムをコンパイルした。 コンパイラーだけで3台のフロッピーを占拠するため、
作成するプログラムはフロッピーを入れ替えながら行うこととなり、 5台目のフロッピーが渇望された。
このころ、300bpsでVAX-11に接続し、1行モードでviを行う。
- 1987年SRA入社。
電力会社・電気メーカーなどへの構造化分析/設計・CASEなどのコンサルティング、および社内・社外へのソフトウェア工学教育などに従事し「日本のソフトウェア開発現場では30年前の技法で開発が行われていること」を発見したが、今に至るも状況は変わっていないため、「コンサルタントは結局何もできない」ことを発見。
1994年から「100億円売り上げも可能」と公言してSmalltalkチームを発足させ、Smalltalk製品の販売・Smalltalkソフトウェアの開発・Smalltalkの教育・オブジェクト指向分析/設計のコンサルティングなどに従事するも売り上げは数億円に留まる。ただし、当初予定の予算・要員の10分の1ほどでやっているので「大本営発表」ほどいい加減ではない。
オブジェクト指向グループに所属し、 オブジェクト指向分析/設計を支援する方法論と形式仕様記述言語の融合を研究中と称し、 Smalltalkプログラミングをplayすることを画策するも、雑用に追われていた。
コンポーネントウェアとSmalltalkを融合したVisual
Smalltalkの 販売・開発プロジェクトのマネージャーでもあるが、糖尿病でダウンしたため、その任を同じ体型のサブクラスである 酒肴冷奴氏氏に譲ろうと考えていた。
なお、「冷奴」の由来は、同僚の青木大僧正が、
「冷たいオブジェクトモデルを書く奴」と命名したことに由来するため、正確には冷*奴と記述しなければならない。 また、ソフトウェア工学全般、オブジェクト指向分析/設計、
CASEおよびプロジェクト管理のコンサルティングを行っているが、 時間単価が高すぎてあまり仕事がない :-)
- 1993年、週刊金曜日の創刊を支援し、東京・金沢・珠洲・仙台の講演会で編集委員のボディーガードを務める。この結果、映画「ボディガード」のケビン・コスナーは、頭脳・体型の両面でボディガードが務められないことが判明する
:-)
- 2000年1月、現役の試合でハットトリックを達成。「体重掛ける年齢では世界最高峰の現役サッカー選手」という触れ込みで周囲を困惑させている。
- 2000年8月日本フィッツ入社。
VDM++を仕様記述言語として、証券会社のバックオフィスシステムを構築中。仕様量・残業量が増えると共にコレステロール量が増加しているため、仕様量・残業量・コレステロール量同一理論を発見中だが、残業料は無い。
- 2002年6月W杯を観戦。
韓国へ2度往復し、W杯会場の無い博多にも出没するなどのため、日本国に先立ち財政破綻をきたし、家内大蔵省の資金注入で何とか生計を立てている。
- 2003年9月、ピサ@イタリアで開催されたFM2003プログラム委員。
イタリア語は1時間しか勉強せずに行ったため、英語で「駅までどうやっていくの」「そこの停留所からバスに乗ればよい」「バスの切符はどこで買うの」「駅で売っている」などとやり取りした結果として、12日間で140kmを歩き、体脂肪率の減少に成功した。
- 2005年7月、ニューキャッスルで開催されたFM2005プログラム委員。
魚介類のレストランを出た直後から具合が悪くなり、会津子豚組の組長にはあるまじき体調で、組長の座を危うくしている。
- 2005年10月日本フィッツが親会社のCSKと合併し、CSKシステムズとなったため、現在は製造グループVDM推進課でVDM宣教師をしているが、子豚のコミュニケーション方式は、旧日本軍の研究に由来する「おい、こら、ブー」式のため、フェリカネットワークス以後ユーザーを獲得できずにいる。
- 2006年5月日本のおばさんと同様、韓国映画やドラマにはまり出す。
ここ2年ほど、一応、はまった状態だったが、韓国ドラマの1シリーズ20時間ほどは1日で見るのが当たり前という韓国語教室のおばさんたちの熱気に当てられ、1日6時間くらいは見るようになった。
このため、佐原家の公用語も韓国語となり、親父や娘も否応なく韓国語を理解しなければならない状況となっている。
- 2006年7月ドイツW杯を観戦。
再び家内大蔵省の資金注入で破産を免れているが、帰国後もW杯生中継と韓国ドラマとFM2006準備などで、夢遊状態。
- 2006年8月カナダのハミルトン大学で行われたFM2006のOverture Workshopプログラム委員。
プログラム委員で大学内の寮に合宿状態で、英語力向上を目指すも、ここのところ家庭内で韓国語を使っていたため、 ネーとかアニョーという応答が自然と口に出て、欧州の大学人に韓国語を広めているが、英語力は向上していない。
- 2007年 9月マカオでビョルナー先生とツォー・ツァオツェン先生の引退記念論文集作成のためのシンポジウムに参加。世界中から形式手法の大先生達が集る中で子豚1匹奮闘するも、マカオの中華料理が世界一のレベルになっていることのみ理解。
- 2007年10月ソウルの西江大学で開かれた JWSD2007に参加。公式宴会で、元NASAのマイケル・ヒンチー先生とサムゲタンを食べながら、システムエンジニアリングとソフトウェアエンジニアリングの融合について聞きながら、だんぼの耳で中西先生ち韓国の先生との会話を聞き、韓国語では中西先生が子豚より上であることを発見。英語・韓国語の並行聞き取りができることを発見したが、もちろん、脳みそにはサムゲタンの味しか残っていない。
- 2008年5月フィンランド・チュルク市オボ大学で行われたFM2008のOverture/VDM++ Workshopのオーガナイザをラルセン先生と共同で務めるも、少ない脳みそにフィンランド語も詰め込め込もうとしたため、英語が押し出されて大平元首相的答弁に終始する。
- 言語、ハイパーテキスト、CASE、モデリングに興味を持つが、金正男に似た風貌のためモデルにはなれないでいる。
- 趣味は囲碁およびソフトウェア収集とプログラミング、読書、映画鑑賞、 ゴルフを除くボールゲーム一般。
サッカーは仕事であるが、誰もお金をくれないため、オシムジャパンの一員になるべく走り込んで足を痛めている。
- ソフトウェア技術者協会(SEA)、
ソフトウェア科学会、情報処理学会会員。 日本UNIXユーザー会(jus)、日本Smalltalkユーザー会(UserTalk)元会員。SEA
sigfm世話人。
プログラマー自由連盟にも加入しようと思っているが、「アリシアの日記」に由来する 英語力不足のため、加入申込書を書けないでいる。
しかし、TOEIC 600点にも満たないであろう英語力で、
FM03, FM05プログラム委員、FM06 Overture Workshop プログラム委員、FM08 Overture/VDM++ Workshopオーガナイザーをすることによって、脂汗による減量を試みたが、成功していない。
- 人生相談社より刊行予定の月刊「ぶるすこ」編集委員。