久野収先生から『金曜日』創刊に参加せよと仰せつかり、ここふ た月あまり思いあぐね、混乱の極みでした。 日ごろ暦をめくるのさえ忘れがちですので、役目つとまるはずが ありませんと、編集長氏に申し出ました。心臓を病んでおられる氏 は、おだやかに笑みを含んでいわれました。「いろいろありまして ね、先々何がおきるか、予測もつきません。一年も働いたら私の命 も、もつかどうかと思っているんです。まあ、そんなあれこれを、 ただ聞いていただくだけで、よろしいのですが」 心優しいこの方の命にかかわるようだと大へん、聞き役ならばで きるかと思い、しばしの間おつとめ致すことになりました。若いボ ランティアの方々が既に参集し手伝っておられる由、電話の向こう で生々した声が聞こえます。
かねがね井上ひさしさんの米発言に、切実な同感を覚えていたこ ともあり、最近筑紫さんの番組で、アイヌ音楽と、神を迎える踊り を見ることがありました。その中で、日本語の「考える」という言 葉をアイヌ語では、「魂がゆれる」というのだと知りました。 魂がゆれるといえば思い当たります。私たちにまだ残っているあ の、語らぬ思いや数かぎりない断念です。たぶんこれは近代的な権 利意識とは無縁な、表現以前のデリカシーです。それが今も、アイ ヌの地に魂の安らぐ時があって、人は言葉以前に魂同士、あるいは 山川草木と共にゆれあっているというのです。 あらためて、病としての文明が、わたしたちの感性を覆っている のに思いあたります。妙な色の、鱗のようなそれを、脱ぎ捨てたい 願望と共に。
この国は、花綵(ずな)のような弧状列島だといわれたことがあ りました。今やカフカの虫にも見えるこの島が、脱皮をとげるとし たら(よもやありえないことですが)、いったいどういう姿のもの が、その抜け殻から出てくるのでしょう。 風土の神々や、感性の安らぐところを自ら封じこめてきた時代に 追いつめられたあげく、近頃わたしは、舗装された地面を割って芽 吹いている蓬や葦をみつけて歩きます。その小さな芽立ちに、遠い 世のメッセージが聞こえるからです。そして草は、未来にむけてゆ らいでいるものですから。 そのような場所に居て、いくばくかのお願いができたらと思って います。
とりあえず今のぞましい文化のイメージとして、かのアイヌ女性 たちの、神を招く手つきが強く灼きつけられています。魂の位相の 高さを見る思いでした。言葉の真の意味で慎ましき節度とは、この ようにさしのべられる指や、脚の自然だったのかと思ったことでし た。全身これみな色情狂という観を呈してきたグラビア雑誌の女性 らにくらべ、微塵の媚もない入神の表情と躯の動きでした。それに 何よりも可愛らしいのでした。 長い黒髪が、天と地とを、掃いておりました。 わたくし祖母ゆずりの、曇った青銅の鏡を持っているのですが、 少し磨きなとせずばと思っています。沖縄の久高島イザイホウのよ うな秘祭や、どこかの隅で、声を呑みこんだ口許が映り出るかもし れません。
週刊金曜日