朝毎読など、いわゆる大新聞の頁数と記事数との関係を調べたことが ある。大新聞では、二四頁のときは記事数が一九〇前後、三二頁のとき は記事数が二六〇前後である。数え方によって多少の増減があるだろう が、一応の目安としてはそんなところで、記事の数が予想外に少ないの で驚いたものだ。
記事の本数が少ないのだから全てのニュースを取り上げるわけにはい かぬ。そこに当然、ニュースの取捨選択が行われる。例えば、一二月一 六日に両国国技館で米自由化反対の大集会が開かれた。一万人の農民が 集まったから、これは大きな集会である。しかもウルグアイラウンドの 話題で世間が盛り上がっている最中のことである。この集会を大新聞が どう取り扱うか注目した。翌日の各新聞の取り上げ方は小さかった。朝 日と読売は写真入りではあったが、分量としてはコラム程度の扱いであ る。第一面で扱ったのは毎日であるが、写真が大きいかわりに文字の量 が少ない。米問題に関心をもつ一人として私はいささかがっかりした。
がしかし、大新聞はけしからんと言うために、こんなことを書いてい るのではない。実はそれでいいのである。各新聞とも米問題に「自由化 すべきである」という定義を先に下しており、その定義に基づいて米問 題を見ているのだからそれでいいのだ。そういう定義があるからこそニ ュースの取捨選択も可能になるのである。米問題に興味のある読者は、 それも自由化に反対の立場をとる読者は、そういう定義の下にニュース を取捨選択している赤旗や日本農業新聞を読めばよろしい。事実この二 紙では、国技館集会のニュースがトップになっている。
こうしてみてくると、それぞれの新聞が下すデキゴトやモノゴトに対 する定義、すなわち新聞の立場というものが、事実や真実をなにほどか 加工していることがよくわかる。では、定義してから見るのではなく、 見てから定義するというジャーナリズムは実現不可能なのであろうか。 それは大変な難事業だが、とにかくやってみるしかないだろう。
週刊金曜日