ジャーナリズム、マスメディアのことを考える時、私は水の流れよう を思い浮かべる。
水源(アカデミズムを含むソース)がやがて小さな流れ(雑誌など) を作り、やがて本流(新聞など)となり、この本流から枝分かれしたり、 そこに注ぎ込む支流として別のタイプの雑誌が存在し、やがて河口の大 河(いまではテレビの役割)に至る。
個人的に私はこの流れを二往復ほど漂流して、いま河口にいる。そこ には塩水やゴミなども交じり合って混沌としているが、それはそれでお もしろくないわけではない。それぞれの部分に役割があると思うのだが、 流れのありようを決める一番大事な部分はどこかと問われれば、私の経 験から言えば水源をふくむいちばん上流だと答える。ここの水質がよく ないことには、川下の汚染はどうにも施しようがない。
情報化社会とやらの名で呼ばれているいまの私たちの社会だが、溢れ ているのは濁流のような情報が多くて、しかも上流の水質がそれほどよ くない。
この状況のどこに問題があるかを考えてみれば、いま必要なクオリテ ィ・マガジンとはどんなものかの答えは自ら出てくると思う。 私流にこれを整理すれば次の五点。それが私が作りたい、読みたいと 思う雑誌である。
何のためにメディアを作ったのか、何のためのジャーナリズムなのか がわからないものが多すぎる。強いて目的を探せば売上増、金儲けとい うのもあるが、それならもっと手っとり早い商売があるはず。とくに大 マスコミに目的喪失の気配が濃い。
あまりにも常套的で、力を持ったニュースソースのマウスピース、ご 用聞きのようなジャーナリズムと情報が溢れている。これがプロかと思 えるようなものが多すぎる。取材力、分析力、表現力の三拍子揃ったコ クのあるものにお目にかかりたい。
何がおもしろいかの定義はむずかしく、千差万別でもある。が、おも しろくないものを人は読まない。おもしろくなくても大事だから読め、 というのは送り手の怠慢と傲慢である。
一方的正義や真理などこの世に滅多にないことを思い知っていいはず のこの世紀末に、左右(なんてあるのか!)を問わず、「われに正義あ り」の一元論が支配的なことにうんざりさせられる。そのくせ、論争は 下手だ。もっと論を、もっと論争を。
この国のどの世界、どの分野を見回しても本格的なクリティークが不 在である。これなしにどんな文化も育たない。この国の数ある不在のな かでもいちばんないのは文化だということを考えれば、ここが強くなら ないことにはメディアは意味ある存在にはなれない。以上の点をどうに かしたいというのが参加の弁であり、期待でもある。
週刊金曜日