"ソフトウェア技術者=サッカー選手<>囲碁・将棋"

釧路環境ワークショップ立場表明書
その3=夜の部版

ソフトウェア技術者=サッカー選手<>囲碁・将棋

第2版


佐原伸

佐原伸 = Shin Sahara, sahara@sra.co.jp
URL=http://www.sra.co.jp/people/sahara
© copyright 1996 Shin Sahara

SRA

  1. はじめに

     ソフトウェア技術者であり、かつサッカー選手でありサッカー=コーチであることから、日頃、日本のソフトウェア技術者とサッカー選手の共通性に興味を持っていました。「なぜ、独創的なソフトウェアが生まれないのか?」、「なぜ、個性を持った選手がいないのか?」という2つの疑問の答えは同じではないのかと。

     また、かって囲碁と将棋の選手であったことから、この2つの疑問は囲碁・将棋のプロの場合には全くあてはまらないことに気がつきました。すなわち「囲碁や将棋の独創的な手は次々と生まれている」し「個性を持った棋士は履いて捨てるほどいる」。

     そこで、私なりの解答を考えました。皆さんの意見は?

  2. なぜ独創的なソフトウェアは生まれないのか?
    なぜ個性を持ったサッカー選手が少ないのか?

     日本製の独創的なソフトウェアを思い浮かべることは難しい。米国のそれに比べると格段の差があります。ソフトウェアの基本概念に関する独創的な研究も少ない。欧州のそれに比べると雲泥の差があります。なぜこのような差が起こるのでしょう?

     日本で個性を持ったサッカー選手を見つけることは難しい。日本と外国の選手が試合をしていると、日本の選手は誰が誰だか良く分からないことが多い。逆に外国の選手は、遠目に見てもすぐに誰と分かる。 自分のまわりを見まわしてみると、ある程度この原因に思い至ります。一つは教育であり、もう一つは環境です。

  3. なぜ知識は叩き込まれるのか?
    なぜ階段を登るのか?

     日本の教育は、旧日本軍の思想をそのまま受け継いでいます。体育の授業などはほとんど軍事教練です。要約すれば「人と違うことは考えるな」「上の言うことには従え」「生意気なことをするな」「連帯責任を取れ」ということになります。サッカーの例でいえば、「パスはコーナーフラッグに向かって蹴れ、考えなくてもいい(そんな常識はサッカーにない)」「先生やコーチの言うことは黙って聞け(しばしばコーチより子供の方がうまいにもかかわらず)」「トーキックなんて生意気なことをするな、基本をやれ(ゴールに蹴り込むことが基本で蹴り方なんてどーだっていいのに)」「点を取られた責任を皆で取れ、ハーフタイムにグランド10周(サッカーのルール違反)」ということになります。

     野球が元らしいのですが、雨の日に校舎の階段を登り降りして、下半身を鍛えるなどというトレーニングがまかり通っています。あるドイツのコーチ曰く「階段を登り降りしても、階段の登り降りがうまくなるだけである」。最近の研究でも、日本の陸上選手がよくやるトレーニングである、その場で走らずに行う「腿上げ」は、スピードの向上には何の役にも立たないことが証明されました。

     サッカー以外の教育でも似たりよったりでしょう。知識を叩き込まないと大学には受からないそうです。しかし、絶対の真実などありはしないのですから、そうやって叩き込まれた知識は、特定の人々の主観に影響されています。極端にいえば間違った知識を鵜呑みしている可能性が強いわけです。現に、私が子どもの頃に教わった歴史や社会や生物や物理や化学の知識は、今ではかなり否定されています。例えば、日本の古代史などは、昔の学説は「全否定」されたも同然のありさまです。医学の知識なども相当変化していて、昔は肯定されていた治療がもはや「意味がない」というものが多くなっています。

     独創的ということは従来の常識を破ることですから、叩き込まれた知識はほとんど役立ちません。このような個性否定・知識偏重の教育をされたら、よほど強烈な個性を持っていないかぎり、大人になるまでに個性が少なくなって創造性がなくなっていくのも当然かも知れません。

     しかし逆に、囲碁や将棋の教育ではこれと反対のことが行なわれています。師匠は弟子に生活面のこと以外は口を出さない。弟子は自分達で上達していくしかない。先輩や自分が打った碁を、皆で検討するのが一番の勉強というわけです。

  4. なぜソフトウェアの開発環境は貧弱なのか?
    なぜサッカー場の芝生は禿ているのか?

     日本のソフトウェアとサッカーの環境も旧日本軍方式です。一人一人の装備は貧弱で、芝生も貧弱です。そもそもサッカー場には芝生がないのが常識になっています。なぜでしょう?

     貧乏だからです。「日本は経済大国である」という説はこの点で間違っています。ソフトウェアの開発環境は世界中と比較したことがありませんが、サッカー場は欧州・南米はもちろんのことアジア・アフリカ・中南米・北米・オセアニアのほとんどの国より貧弱なのです。GNPの比較ではこういう差が表面には出てきません。

     もう一つの理由は、年寄が組織のトップにいることです。「わしの若いころは機械語でプログラムした」とか「わしは石ころだらけのグランドでもスライディングした」と言うだけならまだしも、それを今も実行させようとし、それができる地位に頑張っています。隣の国でも、同じような弊害がこの前表面化しましたが。

     棋士の場合は、いくらでも碁や将棋を打つ環境が整っています。年寄は後進の指導にあたりますが、協会の理事などは他の分野ほど高齢化していません。

  5. なぜソフトウェア=プロジェクトはうまくいかないのか?
    なぜ日本のサッカーは弱いのか?

     日本ほどチームプレーが口やかましく強調される国は少ないでしょう。しかし、なぜかソフトウェア・プロジェクトはうまくいかないのが普通だし、サッカーはチームプレーが苦手です。なぜでしょう?

     まず、日本で言うチームプレーは、一人一人が無責任であることを許しています。例えば、サッカーで相手に追い詰められると盲パスをするという、日本特有のプレーがよくあります。この場合、パスを受けた選手が相手に囲まれて、ボールを取られ怒られるのが常です。パスをしたほうは「チームプレーに忠実である」として褒められることはあれ、滅多に怒られません。外国だったら即座に首でしょう。

     もうひとつ「声を出す」ということがチームプレーの象徴になっています。「シュートを外しちゃだめじゃないか」「どうしてボールを取られるんだ」などという構文で良く使われます。失敗した選手は首をうなだれます。そうすると「ドンマイ」と他の選手が声をかけます。この瞬間に、声をかけた選手と失敗した選手はチームプレーを忘れているのです。味方が失敗した瞬間にそのカバーをし、失敗した選手はそれを回復するために、すぐにカバーした選手のスペースを埋めるのがチームプレーなのです。声をかけている暇などはありません。

     ソフトウェア=プロジェクトでも同じようなことが起きていませんか?

  6. なぜ根性が要求されるのか?
    なぜソフトウェア科学・工学は軽視されるのか?

     ソフトウェア開発もサッカーも、体力と根性の勝負と思っている人達がいます。しかし、サッカーでは

    がこの順で重要と言われています。ソフトウェア開発で言えば といったところでしょうか。根性などはどこにも入っていません。しかも、実際の試合を見ると、根性があるはずの日本選手の方が根性のないプレーを見せることが多いようです。

     MacintoshやNeXTコンピュータの開発者達は、超人的な「根性」で製品を作り出しました。日本のコンピュータはこれらに比べると「根性」が足りないような気がします。どうしてでしょう。

     日本では「根性」と言うと、「歯を食いしばって」面白くない練習を耐えることを意味しています。しかし、外国では「笑ってぶっ倒れる」のです。つまり、面白くやっているのでつい度が過ぎるというやつです。日本でも酒場ではよく見かけます。

     ところが人間の体は、イヤイヤやる練習より、楽しんでやる練習の方が効果があるという特性を持っています。体育の専門家なら常識になっていることです。そういう訳で、日本選手は実際の試合で「根性がない」ように見えるのです。

     にもかかわらず、なぜ指導者・管理者は根性を要求するのでしょう。彼らが専門家でないからです。プロでないからです。自分達のよく分からない技術や科学や工学では、選手や技術者にかなわないので、「根性」を持ち出すわけです。

     棋士の場合は、指導者も専門家です。「根性」という言葉もあまり聞かれません。そのそも定石を知らない専門家などいません。

  7. おわりに

     実はここでとりあげたサッカーは、日本のスポーツではまだましな方なのです。野球などはもっとひどいものです。野球が世界のレベルで見ればひどいものであることを気づかないのは、「鎖国」のせいです。「情報鎖国」と言ってもよいかも知れません。「日本にいては世界が分からなくなる」と言ってもよいでしょう。ソフトウェアの世界はどうでしょう?

     面白いことに、マスコミのサッカー報道とソフトウェアに関する報道が、一番誤りが多いような気がします。

     さて最後に問題を一つ。「日本にいては世界が分からなくなる」といったのは誰でしょう?